M03のMicroSD内部ディスク化 | suxenのブログ. Only my railgun / fripSide ダウンロード・試聴 | オリコン. 嵐がアレックスを楽しむ様子をtwitterで見て、打ちたくなったという山D。 そこで今回は、打ってみたいが気軽に手が出せない、と敬遠している視聴者と山Dに打ち方と面白さをプレゼンする。 西城の功績として、日本の音楽史に於いてエンターテイメントの世界に、洋楽的、ロック的な方向性を取り入れたことがある[16][17][47][206][211][212][218][219][220][221]。西城自身、「それまでの人が演歌かムード歌謡だったから、今でいうJ-POPの原型を作ったという自負はある」と述べている[222]。, 日本の男性アイドルの「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされ、西城は大きいだけであまり特長がないと見なされた[33][47]。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった[14][16][33][44][223]。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた[16][20][74][191][199][224]。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた[72][225]。派手でセクシーなアクションと長身かつ、長い脚が映えるビラビラコスチュームがそのイメージを決定づけた[49][27][33][127][226][227]。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた[33]。, オフィシャルサイト「Music」のファッション解説の充実でも分かるように[128]、西城は男性ファッションの於いても先駆者だった[179][186][211][228][229][230][231][232]。西城の母親は洋服の卸の店を経営していて[55]、子どもの頃から手伝いをさせられたため、服の生地などにも詳しく服が好きだった[55]。このためステージ衣装にも自身の意見を反映させることが出来た[27][228][233]。「自分のことを西城秀樹の一番熱心なプロデューサーだなって思うときがある」と話していた[229]。専属のスタイリストとデザイナーと西城で衣装を考えるが、西城の注文は難しくデザイナー泣かせだったといわれる[229]。ファッション雑誌から自分の気に入ったデザインや色合いの服を選んで[233]、それをさらに自分のオリジナル風に作り変えるスタイルで[229]、1973年の『情熱の嵐』の衣装は、エルメスのスカーフでブラウスを作らせ[234]、間奏で服を破く演出を自ら考案[102][234]、テレビで数回披露しインパクトは強かったものの[102]、経費がかかり過ぎると事務所に怒られ、本当に破るのではなくホック留めにして剥がす男っぽさを強調するアクションに変更した[102]。当時エルメスは女性ブランドのイメージで男性で愛用する人はほとんどいなかった[234]。このエルメスのブラウスを作った人は後にピンク・レディーの衣装を担当したデザイナーであった[234]。藤井フミヤは芸能界に憧れたのは、西城がつぎはぎのジーンズを履いているのを見て「かっこいいなあ、オレもやりたいなあと思ったのが最初」と述べている[235]。また韓国サムスングループ創業者・李秉喆の孫でCJグループの副会長・李美敬(イ・ミギョン)[236] は、1970年代に録画してもらって観た『レッツゴーヤング』の西城のマフラー姿[186] に「これがアイドルか」と感動したと話している[237]。当時の韓国では10代が"同世代"と感じられる芸能人はいなかったという[237]。李美敬は2006年のインタビューで「日本の40代女性がヨン様にのめり込む理由は、アイドルを追いかけた少女期の感動体験が残っているから。私も実感したから分かるの」と述べている[237]。西城は1979年のベストドレッサー賞を受賞しており、プライベートでもよく一人で服を買いに行った[229]。1970年代半ばによく着用したMEN's BA-TSUは[128][229]、西城が原宿を散歩中に店の服を気に入り、自身でステージ衣装を発注したものであった[229]。またセーラーズや[238]、アルマーニを最初に着用した日本の芸能人で[229]、「ボクがデビューして5、6年は、ファッション界も個性派デザイナーが出始めたころだったから、刺激があって衣装選びも楽しかった」「アルマーニはボクが着てから芸能界に広まった」などと話している[229]。『BIG GAME'80 HIDEKI』のジャケット写真[239] に映るシルバーのジャンプスーツは、クイーン御用達のショップにオーダーしたもので、勿論フレディ・マーキュリーを意識したもの[14][240]。, 歌手が楽曲に合わせた振り付けで歌唱をするようになったのは1970年代に入ってからで[241]、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアが、女性歌手では山本リンダ、男性歌手では西城であった[27][183][191][203][241]。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「どうにもとまらない」、西城に激しい振り付けが導入された「チャンスは一度」は、いずれも1972年[51][241]。この年はNHKのカラーテレビ契約数が、白黒テレビの契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた[241]。松永伍一は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"東海林太郎型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『見世物』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている[242]。塩沢実信は西城を「ダイナミックなアクションと絶叫型の唱法で、昭和四十年代から五十年代にかけて、著しい活動を見せた歌手」と評している[243]。西郷輝彦は、西城が間奏でいきなり上着を脱ぎ、ステージから客席に飛び降りた演出にマネージャーから「上着を脱いだらくるくる回して客席投げて、それから飛び降りろ」と怒られているのを見て、西城に専門の振付師がいて演出をしていることに大きなショックを受けた、自身のシングル「情熱」の後、秀樹の新曲が「情熱の嵐」で「ああ時代が変わるんだな」と思った瞬間だった、などと話している[244]。西城は音楽を「聴かせる」から「見せる」にシフトさせた歌手であった[197]。1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付き[103][245]、1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した[246]。また指さすアクションもたちまち大流行した[103]。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた[125][246]。スタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れた1974年の「薔薇の鎖」は、当時の振付けの定型から大きく逸脱するものだった[16][38][44][77][247]。スタンドマイクを蹴ったり、振り回したりするため、音響さんが雑音を取るのに苦労した[103]。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちがホウキを使ってこのアクションをよく真似した[49][33][179][199][248][249]。小っちゃい子までが振りをまねしたがるので、おもちゃのマイク・スタンドが売り出されたほど[250]。新御三家は女性から圧倒的な人気を得たが、西城だけは小学生の男子のファンも多かった[49]。ヒントにしたのはロッド・スチュワートとジェームス・ブラウン[22][77]。特にロッド・スチュワートがコンサートでアルミのマイクスタンドを使っていると知り、すぐに10本を特注[22][186]。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり[77]、翌年にはヤマハが生産するようになった[22]。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた[33][77][133][202]。最初はアルミ製スタンドにテレビ局のマイクをテープでぐるぐる巻いてスタンドに固定した[205]。このため、当時の生放送の歌番組で出番が近づいた歌手が、テープを剥がしているうちに、自分の歌の時間が来たり[205]、西城が生放送でマイク・アクション中、棒を折ったこともあった[205]。, 一の宮はじめは『チャンスは一度』から振付を担当し[251]、「薔薇の鎖」までのアクションは一の宮の考案だったが[250]、次作品の「激しい恋」から、一の宮と西城に、西城のマネージャーを加えた三人でアクションをディスカッションするようになった[250][252]。「薔薇の鎖」が大受けした後だけに「いい加減なものは通用しない」、また「新しいものを作りださなくては!この曲を10代の記念碑にしたい」と西城の意気込みが凄まじく、自身でハンドマイクを使った激しいアクションを提案した[250][注 17]。「激しい恋」のアクションも話題となり、アクション・ブームを巻き起こした[196]。以後、新曲が出るたびに歌唱だけでなく、アクションや奇抜な衣装にも注目された[196][205]。脱ぎ捨てた上着がカメラにドパッと掛かり、生放送の画面がしばらく暗黒になったこともあった[205]。1973年12月に発売した『愛の十字架』あたりからテレビの音楽番組のディレクターから、「いままでの日本のポップスになかったものを売ってきている。すごい企画力、アイデアだ」[205]「デビューの頃から比べて、ぐっと良くなった。日本の歌手は、表現力が乏しいからアクションはあった方がいい」などと評価を上げた[205]。西城は派手な衣装や振り付けで視聴者を楽しませた「テレビで見せる音楽」の時代を象徴した歌手であった[183][204][226]。「魅せる歌手」が急増したのは"西城以降"である[27][126][203]。西城のブレイク直後にデビューした弾ともや(生沢佑一)は、最初から「西城秀樹を目指す」と標榜した[253]。後輩アイドル・あいざき進也は「『新御三家』ら〝本物〟の牙城はなかなか崩せなかったです」と述べている[122]。, 1974年の第25回NHK紅白歌合戦初出場では、白組の先頭打者として怪傑ゾロの衣装で上半身一部シースルー[184]、アイドルなのに顔を隠して登場するという前代未聞の演出を行い『傷だらけのローラ』を熱唱[128][197][200][254][255]。ステージ上で、日本のテレビ音楽番組として初めて『CO2ボンベでドライアイス・スモークを噴出させる』演出を行った[43][197][254][255]。これも西城自身のアイデアで[200]、アメリカのTVショウでティナ・ターナーがこの演出をやっているのを観て、急遽紅白に間に合うようにボンベをアメリカから取り寄せた。それまでのドライアイス演出は、雲海のように下に這わせて幻想的な画を作ることを目的としていた[256][257]。至近距離からドライアイスを噴射させる演出はこれが初めて[257]。翌、1975年11月3日に日本人ソロ歌手として初めて行った日本武道館公演で同じ演出を行い[135]、煙にまかれて窒息寸前となった[120]。, 1978年1月1日に発売された「ブーツをぬいで朝食を」は、同年1月19日にスタートした『ザ・ベストテン』でピンク・レディーの「UFO」に続き、同年2月9日に1位を獲得した楽曲。曲のイントロで西城自身が考案した[258]ライターに火を点け、右頬にかざし、背徳の愛を表現するアクションが人気を呼んだが[222][258][259]、3月4日に大阪の幼い子供の兄弟がそれを真似して、近所6軒を全・半焼させる火災事故を起こし[258][222][260]、翌日の大手新聞、スポーツ新聞も大きく報道した[258][222][260][259]。子どもが真似をして危険だから、テレビでライターを使うアクションはやめて欲しいと当初から批判が上がっており[258]、当時、沢田研二が『サムライ』で短刀を振り回すアクションを取り入れたりし[259][258]、ランキング番組が出来たことで、より競争が激しくなり、振付けがエスカレートした上での不幸な事件で[259][258]、死傷者は出なかったものの[260]、西城は自責の念に駆られ[260]、3月9日の『ザ・ベストテン』生放送で涙を滲ませながら「僕はもうライターを使うにはやめました。皆さんも、どうか真似をするのはやめて下さい」と訴え、ライターアクションの封印を宣言し、以降、このアクションが披露されることはなかった[128][222][259]。, この時代のアイドルに最初からダンス、アクションが上手かったものはいなかったが[261]、しかし売れた人はみんな根性とセンスを持っていた[261]。西城もはじめは不器用で踊りもヘタだった。しかし人一倍根性があり、出来るまでやめようとせず、振り付けの一の宮はじめが「ヒデキもうやめよう」と泣きを入れるほど熱心だった[261]。1970年代後半には一の宮がおおまかな動きを考え、あとは西城が自身の創造力で振り付けを作った[261]。1977年に初めて主演したミュージカル『わが青春の北壁』では[140]、プロでも2年かかるといわれた二回転してその場でストップする動きを1ヵ月でマスターした[261]。当時の売れっ子振付師からも絶賛され、土居甫からは「ぼくはヒデキの振り付けをやってないけど、素晴らしいセンス。歌謡界じゃ、いまナンバーワン」、牛丸謙からは「ヒデキはほんとうに素晴らしい。まだ一度もヒデキの振り付けをやったことはないんだけど、ぜひ一度、ヒデキのステージを作ってみたい」などと評価された[261]。, 1973年9月にリリースされた6枚目のシングル「ちぎれた愛」は、曲中「僕の気持ちを信じて、君をはなすもんか、好きだ、好きだよ、好きなんだよー!」とインパクト絶大なセリフが挿入された最初の作品で[245]、喉の奥底からハスキーな歌声をしぼり出すように歌い上げ、初めてオリコン1位を獲得[27][44]。180cmを超える長身から発する歌声は圧倒的で[21][243]、その歌唱法は「絶唱型」[37][39]、のちに「絶叫型」といわれた[38][262]。理由については「単に恥ずかしく思い切って歌ったことと、やはりロッド・スチュワートやジョー・コッカーの影響はあると思う」と話している[22]。長身をくねらせ、長い髪を振り乱して、全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、激しいアクションとともに、それまでのアイドルに見られなかったもので[262]、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、女性ファンを熱狂させた[21][44][133][196][263]。「傷だらけのローラ」では、新人賞も紅白も出場できなかった前年の悔しさが募り、「早く自分のスタイルを確立したい」と焦り、アメリカで流行っていたシャウト唱法を加えたい」と意見した[102]。, 西城秀樹ショーでは、西城が歌い始めると女性ファンは、その迫力に圧倒され、泣き叫び、興奮のあまり失神し、舞台に上がり西城に触ろうとして警備員に体当たりされたり、極度の興奮と緊張で過換気症候群に陥って失禁して、30分ほど経つとアンモニア臭が会場内に漂ったといわれる[264]。西城は行儀がよかった日本のアイドルシーンにあって、初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者だった[20][21][44][182][211][262][265][266][267]。根源的なビート感覚を携えてロックヴォーカルと歌謡曲の融合をごく自然に達成したのが西城だった[36]。広音域だが、音圧を充分に伴う実声で、高音でもシャウトでき、踊っても叫んでもリズムも音程も髪型も乱すことなく、8ビートを体現した新たなタイプのシンガー[17][36][182][225]、セクシー&ワイルド系アイドルであった[262]。, 大活躍だった1974年の暮れに『週刊TVガイド』は西城の特集を組み、「新ご三家と騒がれた野口五郎、郷ひろみに、二歩も三歩もリードし、華麗なるアクション入り絶唱歌謡は、茶の間のチビッコからお年寄りまでのハートをキャッチ、歌謡界の大型台風になった」と評した[268]。「絶唱型」の楽曲には決まってセリフが入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた[269][247]。セリフ入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。, 西城の歌唱力は今日評価が高く[18][186][190][218][226][269][270]、所属事務所の後輩でもあった岩崎宏美は西城の特徴的な歌声について「誰にもまねできないでしょうね」と評した[271]。松任谷由実は「西城秀樹っていう人は圧倒的にスターだったと思う」と述べ、スター性の根源には「声の素晴らしさがある」と話し「歌手は声がその運命を100%以上決める」と持論を述べ、「斜のかかった強い少年声というのか..大好きな声です」と話している[272]。ミッツ・マングローブは「ヒデキは私にとって最初の"ヒーロー"でした。自分の本質とは真逆の、快活で社交的な男子性の塊みたいなヒデキに対し、それでも無抵抗に心躍ることができたのは、やはりその歌声と健やかな大衆性が圧倒的だったからに他なりません」と述べている[183]。三原じゅん子は西城を「アイドルを超えた歌唱力の持ち主」[182]、黒柳徹子は「『ザ・ベストテン』の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」[273]、鴨下信一は「歌唱力は同時代の誰よりもあった」と評している[274]。鴨下は「ヒデキのひとつ前の御三家の一人・舟木一夫は歌についてはなかなかの理論派だが、ヒデキについてこう語っている。"秀樹の強みは唄い方の構成力が優れているからだ。『YOUNG MAN』の成功はアクションだけではない。でなければ、あんな単純で、そのくせ全部唄うとひどく長い歌はモタないよ"。また、阿久悠に当時の歌番組が歌を短くしようとばかりすると指摘されグウの音も出ず。負け惜しみに『どうやってもカット出来ないような歌を作ればいいじゃない。『魔王』みたいな、ずーっと曲が展開し続けて切れないような。ああいうの書いたら』と言ったら阿久が『よし!たかし(三木たかし)に電話しよう。秀樹の新曲は『魔王』の形式でゆこう!』と長大複雑な『ジャガー』が出来た。皆が秀樹の歌唱力、特に歌の理解力と唄い方の組み立て、つまり構成力は天賦のものと理解していたことがよく分かる。この理解力と構成力こそ、彼がドラマに進出した時の武器でもあった」などと論じている[274]。, 西城秀樹のハスキーな声でシャウトする歌唱が、後続の多くのミュージシャンに影響を与えた理由について[74][209][275]、宝泉薫は「ヒデキの声がロックのテイストにほどよく合っていた。一般にロックは"不良の音楽"などと言われるが、あまり"ドス"が効いていてはいけない。求められるのはあくまで少年ぽいワイルドさ。また毎日のようにテレビに出て歌いまくり、派手なアクションに独特のしゃがれ声でシャウトする姿が当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えたのだろう。ヒデキ後に売れたロックヴォーカリストは、みんなヒデキ的資質の持ち主なのである」などと論じている[214][276][277]。内田樹は「西城の歌唱法は、ポール・アンカの平尾昌晃的解釈による平尾の直接の後継者。以降は西城が原点。西城のあとはあの歌唱法がすごく多い、皆同じ」などと持論を述べている[278]。とりわけロック色が強い西城の豊かな声量と歌のうまさ、迫力は際立ち、ぐっと海外のポップスに近づけ、J-POPに繋がる流れを作ったとも評される[204]。, ブラス・ロック要素を取り入れた5枚目のシングル「情熱の嵐」では、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」での掛け合いをヒントに、作曲の時点で、わざと隙間を作り「ヒデキー」コールを想定した[26][33][51][101][245]。これは西城自身が「ファンの子がキャーキャー騒ぐだけで歌を聴いてくれない。どうにかならないか」と作曲の鈴木邦彦に相談して取り入れられた[221]。予想通り「君が望むなら」「ヒ・デ・キー! A9 chip specs. おどるポンポコリン - ゆめいっぱい - 走れ正直者 - うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール - KinKiのやる気まんまんソング - あっけにとられた時のうた - キミを忘れないよ - 100万年の幸せ!! 【2019年】プロジェクト管理・ガントチャート 人気アプリ. 予想最高気温(全国)|TBSテレビ:お天気ガイド. !」と西城をメインに出して名前を叫び、花火が打ち上がる中、出演者全員で繋いだ手を高く上げてステージを退場した[384]。, 西城の訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年5月20日放送の自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)で、西城を追悼するコメントを述べ、ライブでのエピソードや西城の人柄を語ったうえで、生歌のコーナーで「YOUNG MAN (Y.M.C.A. "など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る[133][306][394][395]。 西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年〈昭和30年〉4月13日 - 2018年〈平成30年〉5月16日 )は、日本の男性 歌手、俳優。 新御三家の1人。本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県 広島市出身 。 アースコーポレーション所属。身長181cm。血液型はAB型。既婚。 注文後、詐欺サイトだと気づいたらやるべきこと | ネット通販. Copyright © 1997-2021 Excite Japan Co., Ltd. All Rights Reserved. X JAPANのYOSHIKIのプロデュースによる「moment」を発売。プライベートな飲み会の席でプロデュースを依頼したところ快く引き受けてくれたという。ロサンゼルスのYOSHIKI所有スタジオでレコーディング。, 1998年4月から、NHK総合『青春のポップス』のレギュラー司会を務め(~2002年3月)、歌手としても幅広いジャンルの楽曲を歌唱した[166]。西田ひかる、森口博子、早見優がアシスタントを務めた。, 1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ・機動戦士ガンダムシリーズ『∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは「Bailamos〜Tonight we dance〜」(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。同年の第50回NHK紅白歌合戦 では、宝塚歌劇団月組をバックに同曲を歌う[167]。, 2000年(平成12年)3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。シドニーオリンピック・サッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売の「時のきざはし」は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。, 2001年(平成13年)3月、45歳のとき、芸能生活30周年を記念した独身最後の写真集 『H45』を発売[168][169]。"ギャランドゥ"全開ショットやヌードを含むセクシーでワイルドな秘蔵写真が満載[168][170]。6月30日、大阪府在住の一般女性と電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画『ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。, 2002年(平成14年)4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場・梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A. !」と返答され、この発言を受け出演を決意している。また、後に桑田から前述の電話の経緯を聞かされ、当初はサザンのみで「YOUNG MAN (Y.M.C.A. )/西城秀樹の全身で表現するパフォーマンスがブームに♪歌詞あり, 星野源「恋」だけじゃない!宇多田ヒカル、KinKi Kids、いきものがかりetc.「春のセンバツ」入場行進曲【まとめ】, GENERATIONS from EXILE TRIBEと世界音楽シーンの接点。5年間の軌跡と音楽的魅力!, 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (17)球場コンサート 空中芸に父カンカン, 【MUSIC】西城秀樹『ブルースカイブルー』あの頃、大阪ミナミの青空が照らした天然芝。/CULTURAL REVIEW about Baseball, シンセ今と昔 : 音を記録するメディア - Red Bull Music Academy Japan, 「ケミカルライト(サイリウム)」の歴史は、こんなに壮大だった! 老舗・ルミカに聞く開発秘話, 昭和の大スターが、角松敏生を起用しアーティストを目指したサウンド 西城秀樹の歌声は、シティ・ポップとして現代に響く, http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/070412.pdf, "SHOGUNの『ROTATION』は、70年代の邦楽シーンを支えた名うてのスタジオミュージシャンたちが作り上げた濃厚な作品", 芳野藤丸が西城秀樹らとの秘話を語る「SHOGUNだって秀樹がいなければ生まれていなかった」, サザン、ユーミン、久石譲、西城秀樹らの魅力を堪能、NHK-FMで『三昧フェス2018』, ニッポンの“CMシンデレラ”50年の名場面(6)「中島はるみ・キリンレモン(1979年)」, 吉田栄作インタビュー(第1回)麻雀ドラマ「天」を語る「全人生を賭けて“男が惚れる男”に」(ネタバレ), 生涯スーパースター〜西城秀樹 | おしゃれ手帖 〜好きなモノに囲まれて~ - 斉藤芳恵, "【甘口辛口】 西城秀樹さん、脳梗塞発症後15年も病魔と闘い続けたのは壮絶の一語に尽きる", 香港スターまで魅了した西城秀樹さん、「“妹”の元に旅立った」驚きと悲しみの声―香港, スポーツジャーナリストが見た五輪とTOKYO2020 「しびれた前夜祭」、88年ソウル大会の濃い思い出-山本浩の五輪の風景(1), 77歳 仲本工事が語る“ドリフ秘話”「加藤は天才、志村は秀才」の理由 ドリフターズ 仲本工事インタビュー#2, "昭和のテレビ 第28回 8時だョ!全員集合(TBS) ランキング データで見る「8時だョ!全員集合」の歴史", 高木ブーがセレクトする「俺の5チャンネル」:スカパー!セレクト5Presents(第94回), バーモントカレー690億皿「Hey!Say!」起用 - スポニチ Sponichi Annex, 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (18)テレビコマーシャル 「ピース」の陰に“演出家”, "「大変お世話になりました」ハウス食品グループ本社 カレー「ヒデキ、感激」で国民食に", 20代女子から“おっさん認定”される死語ワースト10 「ケー番教えて」はもう古い!, 流行語「いただきマンモス」の始祖も西城秀樹さんだった。てっきりマンモスうれ(ピー)の人かと, 佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」vol. ちょっと待て イラスト. Rega バンド wiki. 「オルフェウス」とは?芸術作品や神話「イザナギ」との共通. )」「ブルースカイブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[98]。その後、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。, 没後の11月、妻が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓。この中で、2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたことを公表した[99]。, 2021年1月、長男が「男子高生ミスターコン2021」に応募し、書類選考を通過したことが判明した[83][100]。, 1972年3月25日発売のシングル「恋する季節」で歌手デビュー。オリコン42位。順風満帆なスタートとはいかなかった[51][101]。最初の頃のキャンペーンはジャンプスーツでリンゴ箱に乗り、パラパラのお客相手に歌った[102]。2枚目のシングル「恋の約束」は18位、ジャケット写真にオートバイをあしらい、ワイルドなヒデキをファンに印象付け[103]、"ワイルドな17歳"のキャッチフレーズがつく[103]。徐々にファンを拡大。続く「チャンスは一度」で振付けが付く[103]。アクション・ブームの始まり[103]。8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。このアルバムのB面M3「母と子の絆」は西城が訳詞。デビューから4ヵ月強での初のワンマンライブは、アイドルとしては異例のスピードで[104][105]、ほとんどが外国曲(洋楽カバー)を20曲も歌えたのは勿論、アマチュア時代からのレパートリーを持っていたため[106][107]。『週刊明星』1972年11月9日号に西城に「親衛隊的ファンが地方公演には必ずやってくるとかいった現象があらわれている」と書かれた記事が見られ[108]、これがアイドル歌手の熱烈なファン組織を親衛隊と呼んだ最初の記述かも知れない。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。, 1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。カゼと疲労で40度の高熱を出したが、徹夜で開場を待つ熱烈なファンの人垣が出来ていたことから[13]、西城は周囲からの中止要請を聞き入れず公演を決行した[13]。しかし2回目の公演のフィナーレ(エンディング)「ヘイ・ジュテーム」歌唱中に倒れ、意識不明のまま今里胃腸病院へ担ぎ込まれた[13][103]。西城の母親がこっそり観に来ていて、病室で2年ぶりに母と再会[13]。母が電話で広島の父親に報告すると、父親は元々、息子の歌手活動には反対し[13][64]、自身の事業を秀樹に継いでもらいたいと考えていたから[13]、「もうわしは我慢できん!あれ(息子)を連れて帰って来なさい!」と激怒した[13][103]。母が「それだけは勘弁してやって下さい。あの子は私が止めるのも振り切って歌ったんです。そして舞台で倒れたんです」と訴えたら、父は「舞台で…あれは倒れるまで歌ったのか…」と声が途切れ、「いいだろう。今度だけは許す。だが今度倒れたら、広島に連れて帰る。あれにそういいなさい」とくぎを刺した[13][103]。父親からの叱責の中に父の深い愛情を感じ、「(家出時の)勘当を解いて晴れて父に祝ってもらいたい。そのためにも絶対に成功させてみせる」と改めて意を強くした[13][103]。4月1日のエイプリルフールに千葉県館山市の市民会館での西城秀樹ショーに、東京から西城と一緒にバスに乗り、現地へ行くという"バス・ツアー・アンド・オン・ステージ"というイベントが行われた[109]。申し込み者は全員参加可能で、参加費用は、ファンクラブ会員2,500円、一般3,000円で、往復のバス代、ショーの入場料、弁当代を含んだもので、時代が違うとはいえ驚きの低価格であった[109]。5月21日に岡山市で行われた「象印フェア・西城秀樹チャリティ・ショー」で、Tシャツやベルトなどの"せり売り"が行われたという記述が文献にみられる[110]。今でいうオークションと思われるが、「秀樹が特に選んだもの」という書かれていることから、西城の私物とみられ「ファンの人気も高く1万5000円の売上げは全額施設に送られる」と書かれていることから[110]、オークションといっても上限が設定され、一点、数100円から数千円で売られたものらしい。5月27日、ユネスコ村での「情熱の嵐」新曲発表会「燃えるヒデキ! Macでoffice 無料. 人間関係が複雑になって、つらくなるのはなぜ - 教えて!goo アニメ【忍たま乱太郎】声優一覧 | 声優情報局. )」を歌うことになった。, 1995年3月9日、東京・渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日・6日、後述の通り桑田佳祐からの電話でのオファーを受け[164]、サザンオールスターズのコンサート『スーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行[165]。, 1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル「round'n'round」で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。 Steam:Slime Rancher. 【2019年】プロジェクト管理・ガントチャート 人気アプリ. 【三国大戦スマッシュ!(さんすま)】リセマラ方法と当たり武将. !』がリリース。, 2006年(平成18年)9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」を発売。, 2008年(平成20年)5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子、早見優等と共に、東京・中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。, 2009年(平成21年)3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。, 2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。6月10日、NHK Eテレ『時々迷々』「ヒデキに会いたい!」が放送される[174]。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。, 2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。, 2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。, 2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。, 2015年4月11日、東京ビッグサイト(東京国際展示場・東6ホール)にて開催の、東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞[175]。 「Jリーグクラブチャンピオンシップ」の正式サービスが 【ポケモンGO】メタモンのおすすめ最適技・個体値計算. )」を歌唱した[385]。, 2018年5月26日に行われた西城の告別式では「ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。ご遺族の方のお気持ちを思いますと、心が本当に痛みます。その旅立ちが安らかなものでありますよう、心よりお祈り申し上げます」という弔電がサザンオールスターズ名義で届けられた[386]。, フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード[注 24]、見せ場を提供した[32]。, 1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。, 『8時だョ!全員集合』は、1972年10月2日放送回に初出演し[387]、以降番組の常連となり[388][389]、ゲスト出演は小柳ルミ子に次いで73回で2位[389][390]。歌手がコントをやり始めたのはこの番組といわれており[389]、西城も「単にゲストとしてという意識ではなく、レギュラーのような気持ちで出演させてもらった」と述べている[389]。小柳の1位は、同番組の企画が小柳の所属していた渡辺プロダクションだった関係があると見られるが、西城の2位は、鴨下信一によれば、西城の所属した芸映が最初はTBSのまだ大きくなかった社屋の狭い道を挟んだ向かいのビルの二階の一室に事務所を構えていて、当時は世の中も牧歌的。お向かいのプロダクションに素晴らしい新人が広島から入ったと、TBSの演出部員はその日のうちに知っていて「ぼくらにとってヒデキはお向かいの家の坊や」だったと述べており、TBSの関係者に早くから可愛がられたことが原因かも知れない[274]。男性最多ゲストの西城は、同番組"二大事件"とも[391]"三大事件"ともいわれる(8時だョ!全員集合の歴史#トラブル史)、「火災」と「停電」放送回のゲストでもあった[389][392][393]。1977年5月14日の「火災事件」は「探検隊コント」の途中、小道具のヘビにピストルの火花が着火し炎上したものであったが、西城もこのコントに参加し、ヘビに向けて発泡したのは西城であった[391][393]。「停電事件」があった1984年6月16日の放送回では、停電で場内真暗闇で混乱する中、タイムキーパー用の懐中電灯を渡され、いかりや長介の顔に最初に光を当て番組の進行に貢献した[391]。, 1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!! ロゴマークシンボルデザイン. IPhoneでダウンロードした音楽のバックアップ - できるネット. メニューをタップすると現れる画面. Google ドライブの使い方 - iPhone と iPad - Google ドライブ ヘルプ. ベイビーステップ 第3シリーズ 放送予定. Canon mg7730 ドライバ. Only my railgun / fripSide ダウンロード・試聴 | オリコン. 大井町 カードショップ. 2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京都港区・赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした[176]。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園[177]。, 2016年2月13日、西城が監修したソフトバンク「Y!mobile」の広告が放送開始[178]。「YOUNG MAN (Y.M.C.A. !」ほど流行らなかったが、1983年に西城がバーモントカレーCMで使用したセリフである[402]。, 西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーのCMで見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[306][403]『寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった[33][404]。久世光彦プロデューサーは、西城抜擢の経緯について「秀樹がテレビやステージでみせる、あの炎のような激しいアクション、力感、エネルギー。だがその影には、きっと涙があるに違いない。バンカラではなく、少年のようにセンサイで、悲しいものを持っている。それが本当の"男"の魅力です。今度のドラマで追求したいのは"日本人の男らしさ"―それを表現する素材として、秀樹以外に考えられなかったからです。秀樹は将来、役者としても大物の素材であることは間違いない。日本のアラン・ドロンは沢田研二だが、ぼくは秀樹には日本のジェームズ・ディーンになってもらいたいんです。ドラマは秀樹の弟と姉の将来をタテの線に、人間の傷つけあい、かばいあいをヨコの線に進めていきます」などと話した[405]。当時の人気タレントはドラマの収録に充てる日にちはせいぜい一週間に2日だったが[405]、西城は一週間に4日も空けて、久世からのラブコールに応えた[405]。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる[133][245][406][407][408]。当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している[306]。小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている[407]。, 後に小林がアニメ『∀ガンダム』(フジテレビ)の前期オープニングテーマ『ターンAターン』を担当した際、歌手として西城を指名し、作曲者と歌手という形ながら、久々にコンビの復活となった[199][408][409]。西城はガンダムを知らず、「おれ、ガッチャマンの曲歌うんだろ?」と勘違いしていたといい、周囲が「絶対に断っちゃダメ」と後押してオファーを受けた[47]。「走れ正直者」と合わせ、西城のようなエンターテイナーがアニソンに十分フィットすることが実証された[51]。『ガンダムシリーズ』は中国でも絶大な人気があり「80后」で「ターンAターン」を歌った西城を知らない者はいないという[354]。, "ヤンキー漫画"の先駆けともいわれる[410]『愛と誠』の1974年松竹映画化『愛と誠』製作にあたり[411]、『少年マガジン』連載中から漫画を読んでいた西城が映画化されると聞いて原作の梶原一騎に直談判し、主役の"太賀誠"役を勝ち取った[33][133][412]。人気絶頂の西城の相手役募集には4万人応募があり[413]、西城の推薦により[414][415]、役名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた[416][417]。, 1975年6月から9月まで放送されたTBSのテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子と共演[418][419][420]。第1話のゲストに山口百恵が友情出演し[418]、不完全ながら「新御三家」と「高2トリオ(当時)」の合体が実現した[418][420]。テレビの歌番組では毎日のように顔を合わせていたが、テレビドラマ・映画では唯一の共演作となった[420]。西城と桜田は恋人という設定で[418][419]、キスシーンがあると告知され、桜田も「秀樹クンのファンってコワイ」と怖気づいた[419]。ドラマは原宿・表参道(竹下通りは出ない)が舞台で、当時の原宿は新たな流行の発信地として注目されていた[420][421]。また、吉田拓郎が「ペニーレインでバーボン」を唄ったことで一躍有名になった原宿のバー「ペニーレイン」が登場し[418][422][注 25]、劇中でも主題歌「風の街」を歌った山田パンダがレギュラー出演した他、吉田拓郎や南こうせつ、かまやつひろしらが店の客としてゲスト出演した[418]。, 西城は1987年度のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の主演(伊達政宗役)のオファーをNHKから受けていたという。西城本人も乗り気であったとのことだが、西城のマネージャーを務めた天下井隆二によれば「(芸映プロダクションから)独立して新事務所(アース・コーポレーション)を立ち上げたばかりであったため、新会社の経営状況を考慮してこれを断った」という(実際の主演は渡辺謙が務めた)[424]。天下井は西城が逝去した際に「借金をしてでもこのオファーを受けた方が良かったかな」と心残りであったことを語っている[424]。, なお、新御三家の郷ひろみはデビュー作『新・平家物語』(1972年)を始め、大河ドラマ4作品に出演しており、野口五郎もこの後『八代将軍吉宗』(1995年、脚本は奇しくも『独眼竜政宗』と同じジェームス三木)と『功名が辻』(2006年)に出演したが、西城は生前大河ドラマに出演することは一度もなかった。, かつて「マルベル堂でブロマイドを撮影し出版すること」がスターへの登竜門で「月間ブロマイド売り上げランキングに載る」ことが人気のバロメーターだった時代があり[75][425]、西城は月間売上第1位獲得最多記録で歴代1位の46回[425]、年間では1975年、1976年と二年連続で1位を獲得した[47][426]。また大量に撮影したためポーズがワンパターンになり、唯一目を閉じたブロマイド販売したが、これが売れに売れた[425][427]。, 今日のようにものまねを専門とするものまねタレントが、テレビのものまね番組の主役になる以前の1970年代には『象印スターものまね大合戦』などのテレビのものまね番組では、人気歌手が同じ人気歌手・タレントのものまねを行っていた[428]。西城はエルビスプレスリー、森進一、沢田研二、加藤茶のものまねを得意とし[13]、『週刊セブンティーン』1973年8月14日号に「『象印スターものまね大合戦』の司会を務める玉置宏は若手人気歌手のものまね名人は、野口五郎、西城秀樹、三田明がビッグ3」と話している[428]。この記事には「郷ひろみはものまね番組に出ない」と書かれている[428]。, 中学3年の時、広島県の中学水泳大会で優勝したこともあり[27][429]、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会・水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳、走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)[21][182][429][430]。フジテレビの「紅白スター対抗水泳大会」が番組最高視聴率28.9%を獲ったのは1978年2月7日放送回であったが[431]、このときも白組キャプテンを務めた(紅組キャプテン・郷ひろみ)[431]。プールサイドで「キャーキャー」いっていた女性陣は心から西城を応援していたといわれる[182]。郷との対決は番組のハイライトだったが[44]、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。また西城の幅の狭いブーメランパンツから覗く剛毛は"ギャランドゥ"と呼ばれた[26][44][51][170][193][228][272][432][433]。岩井志麻子は「ヒデキの出現が自身の性のめざめの時期と重なった。"ギャランドゥ"は、いつしか胸毛から下まで体毛がつながっている男性を指す隠語となって定着した。曲名が一般俗語となって広く知られた――。すごい」などと述べている[340]。陸上をやっていたつんく♂は、芸能人運動会で西城秀樹を第3コーナーで抜くことが子どもの頃の夢で[434]、中学二年で走り高跳びで165cmくらい跳んでたとき、西城がレコード会社対抗運動会で、走り高跳びで150cm跳んで優勝したのをテレビで観て「この運動会出たら、オレ1位になれる」と思ったことが将来の目標を"芸能人"と決めた切っ掛けと言う[435]。, 『ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し[291]、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、「YOUNG MAN (Y.M.C.A. WordPress移行メモ(localhost→レンタルサーバー) - Qiita. )」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。, ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[21][78]、その後11年連続(通算12回)開催する。「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。, 1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 7]。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する(史上5組目)[51][注 8][注 9]。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う[79]。, 1983年1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立[80]、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる[74]。, 『NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場(その後1994年に10年ぶりに出場後、1995年、1997年から2001年までの計7回出場した。総出場回数は通算18回)。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞(通算3度目)。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲ランクインした[81]。『ザ・ベストテン』の放送開始はデビューから6年後だったが、通算ランクイン155回は番組史上6位、1970年代以前デビューの歌手では1位。放送開始時から数えた場合、8年連続ランクインは最多の連続年数出演である[47][82]。, 2000年、「最後の愛」を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)から、ポリドールへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。, 長らく独身であったが、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 10]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男[83]、2005年1月7日に二男が誕生している。, 2003年6月21日につんく♂がプロデュースした85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」を発表した直後、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。, だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[85][86]。, 2015年4月13日、満60歳の誕生日を迎える。翌2016年2月には、「新御三家」が3人揃っての還暦祝いを機に、「還暦鼎談」を開催した[87]。, 文藝春秋・2016年12月号において、「3度目の人生」を題目に「2度の脳梗塞には感謝している」等とのメッセージを寄せている[88]。, 2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』に出演。前日に63歳の誕生日を迎えた事から、ステージ上で出演者からケーキで祝福された[89]。しかし、結果的にこのコンサートが西城にとって最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)の開催時、最後方の席で西城が座っている所に総合司会の歌手協会理事・合田道人から紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピールをしたが、これが最後の公の姿となった[90]。, この日から僅か6日後の2018年4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが[91]、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の病院で亡くなった[91][92][93]。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[94]。翌17日には、民放各局がニュース速報テロップを流し西城の訃報を伝えた。, 西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[95]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。, 死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[96]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[97]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.